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发表于 2017-9-1 09:10:16
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日中の「政冷経熱」の壁に挑んだ全日空、成都・武漢路線開通の道のり
8/17(木) 6:00配信 ダイヤモンド・オンライン
日中の「政冷経熱」の壁に挑んだ全日空、成都・武漢路線開通の道のり
写真:ダイヤモンド・オンライン
● 全日空が運航する 成都、重慶、武漢
何年ぶりだったのだろうか。とにかく久しぶりに成都、重慶、武漢を回ってみた。
炎天下の8月に、“3大ボイラー”と呼ばれる成都、重慶、武漢を回るなんて、出発する前からある種の怯えを覚えた。しかし、これらの都市を回ると約束してからすでに1年以上も経ってしまったから、果たさないといけない。
なぜ、これらの都市を選んだのか。それは、全日本空輸(全日空)が飛ぶ中国の内陸部路線を見るためだ。そこで、今回と2回に分けて、中国の内陸部市場と日本との関係をお伝えしたい。
話は、まず小泉純一郎氏が首相を務めた小泉政権時代(2001年4月26日~2006年9月26日)までさかのぼらないと始まらない。
● 「政冷経熱」の壁に ぶつかって進まぬ話
当時の日中関係を表現する言葉に「政冷経熱」というのがあった。つまり日中関係は政治的に冷たいが、経済的には熱いという認識だ。もちろん、今の日中関係と比べれば、あのときの政治的関係はまだまだ余熱が保たれていたような状態だったと言えよう。同様に、経済関係も今よりもっとホットな状態だった。
こうした状態だったから、当時の東京~上海路線は航空会社にとってはドル箱だった。単価の高いビジネス客が多く、日本と中国の各社合わせて毎日10便ほど飛んでいたが、それでも需要の伸びに追いつけていなかった。私も当時、上海に行くエアチケットの確保に四苦八苦していた記憶が残っている。そのため、日中双方の航空会社が当局に対し増便を希望していた。
しかし、空港としては未完成だった成田空港には、それ以上の受け入れ枠がなかった。その解決策として、国土交通省は当時経営が苦しかった関西国際空港へ誘導しようとしていた。一方、需要の多い成田便の増加を求める中国側は、国交省のやり方に反発、日本の航空会社の上海増便計画を受け入れないという対抗措置を講じた。そんなこんなで、日中航空交渉は2005年夏から止まったままだった。
このような事態を打開するため、全日空は2006年秋から、羽田空港と上海の虹橋空港を結ぶ日中共同便の増便案を水面下で打ち出した。同社の幹部が、「羽田の乗り入れ枠がなければ、国内便を調整してでも作る用意がある」とまで語ったほどだった。
どちらの空港も市街地に近く、乗客にとっても便利である。しかし、「政冷経熱」の壁にぶつかってしまい、「一企業としての努力だけでは山は動かない」と全日空の幹部が嘆いた。
当時の私は、日中関係はこれから先も悪くなっていくだろうと見ていた。だから、経済的にはむしろ相互依存の関係を強めていかなければならないし、東京~上海路線のような日中の経済関係を維持すべきだとも思っていた。
その経済関係にまで水を差すようなことがあってはいけない。日中の航空会社が望んでいるにもかかわらず、増便できないのはあまりにもおかしい。こう判断した私は意を決し、日本の全国紙を通じて「大所高所に立って、これまでにない大胆な発想で問題解決に取り組んでほしい。そうした地道な努力が、日中間の相互信頼の土台を固めていくことだろう」と、日中双方の航空当局に呼びかけた。2006年2月18日のことだった。 |
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